コラム | COLUMN

「気になる本はたくさんあるけれど、忙しくて、ついつい読まずに終わってしまう…」。そんなビジネスパーソンのために、仕事に役立ちそうな本、これからの人生をより豊かにしてくれそうな本を編集部がピックアップ。内容を“美味しいとこ取り”でご紹介します。今回はこちら…

ちょっと立ち読み〜ビジネスに強くなる本 第17回

「IOC~オリンピックを動かす巨大組織」
猪谷千春 著

新潮社 / 1,470円

2013-05-07

1956年に日本人初の冬季五輪メダリストとなった著者が、1982年から30年間務めたIOC国際オリンピック委員の仕事について語った一冊。世界のスポーツ文化発展を牽引してきた“オリンピック”の変遷を知ることができます。

二足のわらじでIOC委員に


1894年、フランスのクーベルタン男爵によって設立されたIOC(国際オリンピック委員会)。イギリス伝統のボートレース「ヘンレー・ロイヤル・レガッタ」に倣い、競技者や監督、コーチとは別に外部の人間が運営を行う組織として誕生しました。
2年後の1896年に第一回近代オリンピック・アテネ大会が開催され、オリンピックの歴史が幕を開けます。

IOCの本部はスイス西部のローザンヌにあります。オリンピックを国家間の対立から保護することを望んだクーベルタン氏は、この地をオリンピズムの理想郷にしようと考えました。現在、IOC加盟国は204カ国、委員は定員数が115人と定められています。

1956年、コルチナ・ダンペッツオ(イタリア)大会で、スキー回転の選手として日本人初の冬季五輪メダリストに輝いた猪谷氏は北海道で生まれ、群馬や長野で育ちました。米国ダートマス大学を卒業後にAIU保険会社に入社、アメリカンホーム保険会社の社長を務めている時に、IOC委員を定年で退任する竹田恆徳氏からの推薦を受けて、委員に抜擢されます。
当時、サロン的な雰囲気のあったIOCでは、渡航費などの費用はほとんど持ち出しであったのだとか。猪谷氏は会社からの支援を受けて、委員を続けたそうです。

存続が危ぶまれたオリンピック


1968年のメキシコシティー大会から続く4つの夏季大会は、「四つのM」としてオリンピック史に暗い足跡を残しています。
メキシコシティー大会では、IOCがアパルトヘイト政策を続ける南アフリカに招待状を出したことに対して大規模な混乱が起きました。続く72年のミュンヘン大会ではテロ事件が勃発。76年のモントリオール大会ではオイルショックのあおりを受けて予算が膨大に膨らみ、モントリオール市民は負債を返済するために増税を受け入れざるを得なくなります。冷戦下で開催された80年のモスクワ大会では、アメリカや日本など西側諸国のボイコットがありました。

このようなことから一時期、オリンピックムーブメントは衰退します。
1984年大会については、オリンピックを開催したいという都市が名乗り出ず、立候補地はなんとロサンゼルス1都市だけでした。

このロサンゼルス大会が「前代未聞の型破りな大会」として、後々まで影響を与えることになります。
まず開催都市が財政出動を行わず、代わって民間資本で行うというスタイルが決定。テレビ放映権、一業種一社のスポンサード、聖火リレーのスポンサー募集など、赤字を免れるためのさまざまな施策が繰り広げられました。当然、大きな批判も受けましたが、140カ国という史上最多の国・地域が参加し、最終的に2億1500万ドルの黒字を計上します。

長野での開催を目指して


オリンピック開催が黒字を納めたことで一転、世界各国で招致争いが加速していきました。そんな中で開催にこぎつけた1998年の長野オリンピックは、私たちの記憶にも新しいところ。日本人選手の活躍も華々しく、国内全体が多いに盛り上がりました。

招致活動では、猪谷氏も積極的に活動しました。
1989年に正式に長野冬季オリンピック大会招致委員会を設立。ライバルは、アオスタ(イタリア)、ハカ(スペイン)、エステルスンド(スウェーデン)、ソルトレークシティー(アメリカ)、ソチ(ソ連)でした。

海外では積極的にIOC委員たちに長野招致を働きかけ、日本では視察として来日するIOC委員たちの対応に追われる日々。当時、長野を訪れた委員は60名。そのすべてを個別に東京の自宅に招き、ホームパーティーを開いて歓待したといいます。その頃には「ホドラー・ルール」といって、委員へのプレゼントの上限額が定められていましたので、その範囲内でボールペンやスカーフなどのプレゼントも用意しました。
なんと、これらの費用はすべて自前だったのだとか。「なぜそこまでしたのか?」という問いに対して猪谷氏は、「自分が招致立候補の都市を訪ねた時、いつも歓待してもらって嬉しかったから」と振り返っています。

自宅でのパーティだけでなく、長野を視察するIOC委員に同行して競技予定会場をめぐったり、日本のスポーツ関係者や長野の招致関係者、政治家や財界人などを紹介し、会談に同席しました。

国際社会における長野の知名度は決して高くなかったため、招致活動では高い語学力を持つ地元の実業家を「ミスター長野」として招致活動の顔としました。
また、未来を担う子供たちが地元の風景を描いた絵をカレンダーやはがきにし、91人のIOC委員に送付するといった活動も行っています。

IOC委員の夢は3つあると、猪谷氏はいいます。
1.母国でIOC総会を開き、ホスト役として成功させること。
2.母国の後輩選手にオリンピックでメダルをかけること。
3.母国にオリンピック競技大会を招致すること。
もちろん、3つめが最大の夢。その夢のために奔走しました。

IOC委員はみなプライドが高く、人から指示されるのを嫌う傾向があるのだとか。そのため最後まで、開催地選挙の票の行方は読めないことが多いそうです。

ボランティアの力の大きさ


1998年、冬季長野オリンピックは大成功を収めました。日本の選手たちが活躍したことで盛り上がり、運営にもよい影響を及ぼしたといいます。
スピードスケート男子500mの清水宏保選手が獲得した金メダルは、日本のスピードスケート界にとって初のオリンピック金メダルでした。フリースタイルスキー女子モーグルの里谷多英選手の金メダルは、日本の冬季オリンピック史上初の女性金メダル。そのほか、舟木和喜選手、原田雅彦選手をはじめとするジャンプ陣の活躍などもあり、日本中が沸き立ちました。

オリンピックを成功に導く鍵は3つ。
ひとつめは開催国の選手の活躍、ふたつめは天候。長野大会では日本選手の大活躍とともに青空が続いたことで、競技会場も表彰式会場も、連日たくさんの観客の熱気に包まれました。

そしてこの大会で確信したのが3つめ、ボランティアの働きだったそうです。
組織委員会だけの努力では滑らかな運営は難しく、各所に配されたボランティアの働きが、この大会では大きな役割を担いました。
閉会式でサマランチ会長は「エクセレント」と称賛。IOC委員たちからも、同じ声が多く寄せられたのだとか。
なんとも嬉しいエピソードです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「スポーツは周囲を元気にする」。
閉塞感のある現在の日本において、「2020年東京オリンピック」がもし開催されることになれば、大きな突破口になるかもしれません。
若いアスリートたちが大きな夢を育めるような、そんな環境が整っていくことを願っています。

(編集部:Y.C)